2010年12月20日月曜日

「いまどき」の“サロン”コンサート



この平河町ミュージックス、 アーティストのスタイルや選曲で、他にはあまり見られない試みをしているらしい。
私は、その道のプロではないので、斬新さについて、語れるほどは分からない。
ただ、心地よいコンサートだな、と感じている。



人によれば、これは“サロン”コンサートの類になる、とか。
コンサートの特徴や、他との差別化は、音楽的な試みにおいて、なされているのだろう。
が、個人的には、それ以上に“サロン”の方に、強いオリジナリティが発揮されている、と思ったりする。


コンサートと謳われている以上、訪れる人々は、音楽そのものに少なからず期待しているだろう。
でも、“サロン”の方には、そこまで期待していなかったりするのかもしれない。
むしろ、あまり意識せず訪れてくる。
すると、この空間があるのだ。
この空間に足を踏みいれる。
「どこが会場?」とのとまどいがあり、「何? ここで聴けるの?」と、ちょっと得した思いが湧き上がる。

そして、演奏後にふるまわれるワインは、その日の音楽にちなんだ、特別なこだわりのあるもの。
さらに得した思いが湧き上がる。


社会が豊かになり、日頃から、上質なものに触れる機会が増えた、「いまどき」の人々。
だからこそ、“サロン”コンサートで、音楽のクオリティが高くても、“サロン”のクオリティが低いなんて、中途半端。
このコンサートなら、音楽と“サロン”が、五感のすべてを満足させてくれる。
「いまどき」の人々には、もってこいのコンサートなのではないか。

平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ 鈴木寿枝

2010年12月14日火曜日

少しずつ前に進む楽しみ:6回の公演を終えて

早くも年の暮れ。春に始まった平河町ミュージックスが6回まで無事終了した。2011年の春公演のアナウンスもおこなわれ、今後も3回ごとの区切りでリズムを整えながら活動を続けてゆきたいと思う。シリーズのコンセプトについての確信は持っているものの、コンサート運営については手探りでここまでたどりついた。


春の3回は、沢井一恵さんのさまざまな箏、草刈麻紀さんによる木管と声のアンサンブル、漆原啓子さんと片岡詩乃さんのデリケートなデュオと、空間の特性を身体にしみこませたうえでの研ぎ澄まされた表現が印象的だった。秋の3回でも音楽は一層奥行きを増す。笹久保伸さんのギターのひとつひとつの音色には旅の香りがあり、漆原啓子さんと瀬木理央さんの2本のヴァイオリンには多様な歌が流れては交わり、戸島さや野さんのヴァイオリン・ソロはきりりと居ずまいを正して空間と対峙していた。


そのたびに、奏でる<音>にそれぞれの<場>が色づく瞬間を目撃する幸運を得た。主役は音に違いないが、椅子もキリムも、外を行く車のヘッドライトまでも音の連なりに参加していたような。その意味では、多様な音楽をあらわす「ミュージックス」という呼び名が、多様な動きとしつらえによって音楽が成り立つものであることを明らかにすることになっていった。そこには、毎回お見えいただいていた高橋悠治さんはじめ、聴き手が過ごしてきた人生の時間までも加わっていたような気がする。もちろん、近隣の平河町に暮らす人たちの時間までも。


手探りの運営については、反省するところがいろいろとあるので、平井洋さんと一緒に知恵を凝らし、丹精こめて手入れしてゆきたいと思う。そのなかで忘れないようにしたいのは、演奏者への敬意と親愛の情である。そして、聴き手がかけがえのない時間を過ごせるようにという姿勢と。



ところで、平河町ミュージックスには、小沼純一さんの解説文にあるクオリティ、音楽にアソートされたポスターとワインの妙味、ときおりの西川純一さんの家具やキリムをめぐるトークなど、掘り出しもののような楽しみがある。週の終わりの、ちょっとしたワンダーランド。どこから入っても、また別の知らない世界への出口が見つかるような、そんなシリーズでありたいものだ。

平河町ミュージックス実行委員 佐野吉彦

2010年12月11日土曜日

平河町ミュージックス第六回公演 戸島さや野 ヴァイオリン・ソロ モノクロームのなかに無数の色を を聴いた

「この位置が、音が隅々までいきわたる感覚がした。」
そう言いながら、
前日のリハーサルで、
戸島さや野は白い空間の中の
入口の隅で演奏することを選んだ。
公演当日、
戸島は夕暮れの光の中で、響きを確かめていた。


公演のはじまり
テレマン:「12のファンタジアより第7番」
白い空間の片隅から
ひとつのヴァイオリンが聴衆に向き合う。





戸島美喜夫:ソナタ「三つの声」の演奏に先立ち、
作曲家戸島美喜夫が小沼純一に語りかける。
もともとヴィオラのためにつくった作品を、
この日のために、
ヴァイオリン用に手を加えた時のことを。




〈遠くからの〉
〈南の島からの〉
〈まわる風の〉
3つの、抽象的でありながら、
つややかな旋律を弾き分ける。




フェルドマン:「アーロン・コープランドのために」
中二階から、短く、音の少ない、弱音が降りてくる。
聴衆は、中空を見つめ、あるいは目を閉じながら、
絃と弓から放たれる音のひとつひとつに聴き入る。



そして、バルトーク:「無伴奏ヴァイオリンソナタ」
スケールの大きな名曲であり難曲でもある作品を
たったひとりで弾く。
若く力強い才能が、難曲を弾きこなし、
親密な空間で、
聴衆を呑みこんでいく。


バルトークを弾き終え、
小沼と語る戸島の表情に、
おおきな曲を弾き終えた安堵感が漂う。





アンコールは、
バッハのヴァイオリンソナタから

渾身の演奏が静かに終わった。





虹をつくる色の平行線の一部に白い色をのせることで、
様々な色の文字が浮き上がる今回のポスター。
絃の上におく弓のあり方で、
無数の音が出るさまを表している。
そしてそこには、私達の期待も込められた。
戸島が、これからも
たったひとつのヴァイオリンから、
無数の色を紡ぎだしてくれることを。


平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ   木村佐近

2010年12月7日火曜日

第5回を終えて(3)

どうしても19世紀までの作品が中心になってしまう、
という漆原啓子に、
20世紀作品にチャレンジしてもらう-----
初年度のHMSに2回登場していただくヴァイオリニストに対し、
わたし、いえ、ほかの実行委員も、そんなおもいを抱いていました。


漆原啓子が高橋悠治作品を水戸芸術館で弾いたのは2009年7月。
それがとても良かったのです。
でも、たしかに、漆原啓子は20世紀作品を弾いていない。
そうした場面にあまり遭遇することはない。
だからこそ、とわたし、わたしたちは考えたのでした。


そして、春季にはハープと、秋季にはソロ中心と二つのヴァイオリンと
というプログラムを組んでみました。
ヴァイオリンという楽器を中心にしたとき、
どうしても、ピアノという相方がふつうになりますけれども、
「ピアノがない」というところをメリットととらえて、
べつのことをとヴァイオリニストに提案できたことも、
良かったようにおもえます。
ヴァイオリニストにとっては迷惑かもしれませんが(笑)。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年12月4日土曜日

第5回を終えて(2)

ヴァイオリンのデュオは、
なかなか接する機会がないかもしれません。
おなじ楽器なので、
どちらかが主で従になるわけではない。
だから、
ときには張り合い、ときには主を譲りながら、
「平等」のおもしろさをつくりだしてゆきます。
プロコフィエフでは「張り合い」がつよく、
武満徹では「譲りあい」が、では言い過ぎでしょうか。
武満作品では、
タイトルに「揺れる鏡」ということばがはいっていますけれども、
ふたつの鏡が、おたがいを映しあい、ずれ、たゆたう、
そんな空間と時間のさまが生まれていたようです。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年12月1日水曜日

第5回を終えて(1)



バッハとイザイ、
つながりのある2つの作品を、
バッハは中二階、イザイは一階で演奏。
しかも、
前者はバロック時代につかわれていたタイプの弓、
後者は近代/モダンの弓をつかって、
弾きわけていました。
しかも、
コンサートの最後で演奏された高橋悠治作品では、
ふつうのモダンの弓をつかいつつ、
ヘアー(馬の尾の毛)をゆるくするというやり方がとられ、
当然、音色も変化が生じることになります。
さらにアンコール、
冒頭に演奏されたバッハの作品の1つの楽章が、
今度は一階、
またモダンの弓で奏され、
音・音楽のコントラストがつけられると同時に、
コンサートとしてのひとつのかたちが完結したことを
感じさせられました。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一