2010年7月17日土曜日
第3回を終えて(3)
プログラムをつくるとき、
前半と後半と、コントラストをつけよう、と考えていました。
前半は親しみやすく、
また、二つの楽器が「一緒」に演奏する、
「共演」のありよう、
息のあわせ、
というのが提示できれば、というのがあり、
一方、後半は、
高橋悠治作品のみにすることで、
ひとつの独特な空気をつくり、
音楽の聴き方が自然と変わってくるようなものになるといい、
というのがあったのです。
特殊な奏法、変わったひびきが駆使されるものではなく、
ちょっとした、微妙なひびきが、時のながれとともに感じられるような、
また、
音楽による「ドラマ」や「物語」ではない、
音楽による語り、語りかけの状態にふれてほしい、
とでも言ったらいいでしょうか。
二人の音楽家も、「あわせる」のではない、
そこでもうひとりが弾いているのを感じながら、
自分のやることをやり、そうした「あいだ」で音楽が生まれてくる。
そうしたこともありうる、と。
聴き手の方々のみならず、
コンサートにかかわっているスタッフの方々も、
こうした音楽のありようは馴染んでいない、
ちょっと不思議な印象を抱かれた、
かもしれません。
建物を設計する、家具をひとつの空間のなかに配置する、
そうしたお仕事をされている方々が、
音楽の、いろいろなありように気づいてくれたりすることも、
クリエイティヴィティというところ、
世界に何か新しいものをつくりだすというところにおいて、
何か刺激になっているのではないか、
などと考えるのは、勝手なおもいこみかもしれませんが。
平河町ミュージックス実行委員 小沼純一
2010年7月15日木曜日
第3回を終えて(2)
ヴァイオリン・ソロによる
《冷たい風吹く地上から》は、
ほかの曲とちがって、
階段をのぼったところにある中二階で演奏されました。
演奏者の姿はよく見えません。
音は「どこ」か、高いところから、やってきます。
右手で弓を弾きながら、同時に左手で弦をはじく。
弓の速度を変えて、音色が変わる。
からだのむきを動かし、ひびいてくる方角が変わる。
風が、音を動かしているのかも、
などと、あらためてタイトルを想いだしたりもして。
ハープによって演奏された
《さまよう風のいたみ》は、
もともとピアノのための作品です。
ハープの、
絃をはじくと、
音が生まれ、すぐ減衰し、短く余韻がのこる。
そのさまが、雨音のつづくなか、
雨音と同化したり、異化したりしながら、
一本の「うた」をつむいでゆきます。
演奏家の足下には、
6-7 メートルもの長さがあって、
すこしずつ色あいや紋様が変化してゆくキリムが敷かれています。
《Insomnia 眠れない夜》、
ハープはそのままの位置にいる一方、
ヴァイオリンが動きます。
弾きながら、歩く。
歩きながら、弾く。
キリムのほぼ両端、二カ所に譜面台をたて
ときどき移動します。
音場、とでも呼ぶのでしょうか、
音のひびくところ、方向が変わります。
そして、
音の向き方とともに、
演奏家のうごきに、敷いてあるキリムにも
聴き手の視線はむかいます。
コンサートホールでの、
高くなったステージと客席は分離しています。
それでいながら、
ここではもっと身近に楽器が、演奏があるのです。
その分、
ふつうには耳にはいらない音もしてきます。
とても小さな弓が弦にふれる音、
ちょっとしたノイズ、
ヴァイオリンのむきが変わると、
耳も、お、と反応するのです。
演奏家のうごきによる空気の変化。
複数の演奏家が一緒に音楽を奏でているとき、
こういうことが音だけではなく、
肌でもやりとりされているんだ、
というのがわかるのです。
もうひとつ、大切なことがあります。
先にも記したように、
《Insomnia》は、ふつう、ステージ上で演奏されるわけです。
客席のうしろから、
ヴァイオリニストが演奏しつつ歩いてきて、
また、
最後には帰ってゆく、
というような空間性を味わうことはできません。
聴き手が、ヴァイオリンはどこ?とふりむいたり、
さっきは左のほうから音がして、
いまは、正面から音がする、というようなことも、ないのです。
《Insomnia》をこんなふうに体験できたのは、
今回がはじめてではないでしょうか。
平河町ミュージックス実行委員 小沼純一
2010年7月13日火曜日
第3回を終えて(1)
ヴァイオリンとハープという組み合わせで何ができるか、
今回は選曲もおこなっていたのですが、
当日はかんたんな進行とともに、
高 橋悠治作品が演奏される前に、
詩の朗読をする役割も果たさなくてはならなくなりました。
前日のリハーサルのとき、作曲者に指示されたた め、です。
今回演奏された3つの作品、
《冷たい風吹く地上から》《さまよう風のいたみ》《Insomnia 眠れない夜》
は、 それぞれベルトルト・ブレヒト、高銀、オシップ・マンデリシュタームの詩から
タイトルがとられています。
音楽そのものと詩との関係はそれ ぞれ異なっていますが、
たしかに、詩があると、すこし聴き方も変わるかもしれません。
当日は、午後になってから雨が降り始め、
だ んだんとつよくなり、
コンサート後半では、びっくりするくらい大きな音で
ガラスに雨粒がぶつかっていました。
ですから、
詩 の朗読をするにしても、
声があまり大きくなく、ひびきもしないため、
聞こえなかった方も多くいらしたかとおもいます。
(申し訳あ りませんでした……)
雨が大きな音をたてる、
それでも、かならずしも音楽を邪魔するものではないのだな、
と気づかされた りもしました。
むしろ、
雨音のなかにある、雨音とともにある楽器の音、
持続する雨音のあいだをぬって奏でられている音楽を
耳 は、ふつうに聴いているよりもずっと積極的に、
たどっていこうとします。
音楽を聴く、という行為を、
こうした状況だからこそ、捉 えなおすことができたように、
個人的には感じていました。
平河町ミュージックス実行委員 小沼純一
2010年7月12日月曜日
呼びかけあうこと/佐野吉彦
過ぎ行く春か、繁れる緑か。平河町ミュージックスの春公演は、豊かな手ごたえをもたらしつつ、完結した。まずは、第1回の沢井一恵さん。さまざまな箏を、位置を変えて弾きわけ、空間に独特な香気を漂わせていた。第2回のクラリネットの草刈麻紀さんをリーダーとする木管アンサンブルとこんにゃく座の歌役者のおふたりは、空間に愉悦と弾みを与えてくれた。ロゴバの持つ場所の面白さを発見して、あるいはそれに触発されて、この場にしかない新しい表現が生み出された印象がある。じつに、かけがえのない、楽しい時間を味わうことができた。
この平河町ミュージックスは平井洋さん、小沼純一さん、西川純一さんと手づくり・手探りで始めたシリーズだったが、運営スタッフに何かと汗をかいてもらった。それぞれに対し呼びかけあい、奮戦しながら呼吸をあわせていったところは、まさに室内楽をつくりあげるプロセスだ。さて、この空間にはステージがない。どこまでが奏者でどこまでが観衆なのかが画然と分かれた風景ではない。空間がやわらかく全体を包み、家具が身体をくるんでいるものだ。その一方で、音楽のクオリティの高さにおいて、奏者と観衆とのあいだにきちんとした線が存在している。共有しながら、お互いへの敬意を失わない空気が、回を重ねてできあがりつつあるように思う。
さて、第3回は漆原啓子さんのバイオリンと片岡詩乃さんのハープ。雨が降りしきる夕べ、雫の音と濡れそぼる街角を背景に置きながら、繊細な音のつらなりが空間に満たされてゆく。後半の高橋悠治さんによる3曲では、過去2回同様、空間を水平垂直に移動しながらの表現が試みられた。これら高橋さんの音楽には「多様な声」が重なりあっている。それぞれの曲において高橋さんと響きあった詩が小沼さんによって朗読されたが、作曲家も詩人も、奏者もお互いにていねいに呼びかけあっていたように思われた。この場における試みには高橋さんが宿す精神が欠かせないことをあらためて感じた。この場から呼びかける声はどこまで届くだろうか。平河町ミュージックスは、この世界をともに生きることの意味を問いかけることになったと言えるかもしれない。こりゃ重大なミッションだぞ。
この平河町ミュージックスは平井洋さん、小沼純一さん、西川純一さんと手づくり・手探りで始めたシリーズだったが、運営スタッフに何かと汗をかいてもらった。それぞれに対し呼びかけあい、奮戦しながら呼吸をあわせていったところは、まさに室内楽をつくりあげるプロセスだ。さて、この空間にはステージがない。どこまでが奏者でどこまでが観衆なのかが画然と分かれた風景ではない。空間がやわらかく全体を包み、家具が身体をくるんでいるものだ。その一方で、音楽のクオリティの高さにおいて、奏者と観衆とのあいだにきちんとした線が存在している。共有しながら、お互いへの敬意を失わない空気が、回を重ねてできあがりつつあるように思う。
さて、第3回は漆原啓子さんのバイオリンと片岡詩乃さんのハープ。雨が降りしきる夕べ、雫の音と濡れそぼる街角を背景に置きながら、繊細な音のつらなりが空間に満たされてゆく。後半の高橋悠治さんによる3曲では、過去2回同様、空間を水平垂直に移動しながらの表現が試みられた。これら高橋さんの音楽には「多様な声」が重なりあっている。それぞれの曲において高橋さんと響きあった詩が小沼さんによって朗読されたが、作曲家も詩人も、奏者もお互いにていねいに呼びかけあっていたように思われた。この場における試みには高橋さんが宿す精神が欠かせないことをあらためて感じた。この場から呼びかける声はどこまで届くだろうか。平河町ミュージックスは、この世界をともに生きることの意味を問いかけることになったと言えるかもしれない。こりゃ重大なミッションだぞ。
2010年7月10日土曜日
平河町ミュージックス第三回公演 漆原啓子、片岡詩乃 ヴァイオリンとハープ~華麗さとかそけさと を聴いた
前日、漆原啓子、片岡詩乃と今回の演目の作曲家高橋悠治が、リハーサルに臨んだ。
念入りに高橋が指示を出す。
「同じテンポにしないでつまずきなさい」「ただ繰り返すのではない」。
偉大なソリストたちは、作曲家の言葉に耳を傾け、一つ一つの音を確かめていた。
厳しい音楽の世界が垣間見えた。
準備は万端。
本番当日、梅雨空。
開演の前から、ガラスのむこうの雨足がしだいに強くなる。
スタッフに緊張が走った。
しかし、漆原のストラディバリウスと片岡のハープの圧倒的な響きが雨音を飲み込んだ。
白い空間が、サン=サーンスの幻想曲で満たされたとき、雨音は感覚の外に消えた。
19世紀末から21世紀までの、イベール、ダマーズ、中島ノブユキ、ペルトの作品を二人の楽器がゆるやかにたどっていく。
小沼純一が「冷たい風吹く地上から」の詩を語り、中二階から漆原の音色が聴こえ始める。
高橋悠治が階下の客席で目を閉じていた。
作曲家は自らが手がけた楽曲が、偉大なソリストによって音に変えられる瞬間をどのように感じているのだろうか。 穏やかな高橋の表情から、その深い思いが伝わってくるような気がした。
「さまよう風の痛み」、ハープのソロが続く。
高橋作品は、前衛的でありながら、優雅な気品にあふれている。
全身をつかってハープを奏でる片岡の動きと音色を、観客が丁寧に追う。
念入りに高橋が指示を出す。
「同じテンポにしないでつまずきなさい」「ただ繰り返すのではない」。
偉大なソリストたちは、作曲家の言葉に耳を傾け、一つ一つの音を確かめていた。
厳しい音楽の世界が垣間見えた。
準備は万端。
本番当日、梅雨空。
開演の前から、ガラスのむこうの雨足がしだいに強くなる。
スタッフに緊張が走った。
しかし、漆原のストラディバリウスと片岡のハープの圧倒的な響きが雨音を飲み込んだ。
白い空間が、サン=サーンスの幻想曲で満たされたとき、雨音は感覚の外に消えた。
19世紀末から21世紀までの、イベール、ダマーズ、中島ノブユキ、ペルトの作品を二人の楽器がゆるやかにたどっていく。
小沼純一が「冷たい風吹く地上から」の詩を語り、中二階から漆原の音色が聴こえ始める。
高橋悠治が階下の客席で目を閉じていた。
作曲家は自らが手がけた楽曲が、偉大なソリストによって音に変えられる瞬間をどのように感じているのだろうか。 穏やかな高橋の表情から、その深い思いが伝わってくるような気がした。
「さまよう風の痛み」、ハープのソロが続く。
高橋作品は、前衛的でありながら、優雅な気品にあふれている。
全身をつかってハープを奏でる片岡の動きと音色を、観客が丁寧に追う。
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