漆原は、一音のひずみも聴き逃すことなく、数分毎に弓を止め、指示を出す。
「そこは、もっとしゃべるか、踊るかして。」
「譜面を追わず、空間を感じて弾いて。」
矢継ぎ早の指示を、瀬木はひとつひとつ確実に受け止めていた。
当日、開演を待つ聴衆はいつになく静まり返っていた。
照明が落とされ、白い空間が、闇に包まれる。
「バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」が
中二階の上から降りてくる。
闇に、ひとつのヴァイオリンの音色が沁み入る。
後半、
漆原と瀬木のデュオではじまる。
「プロコフィエフの二つのヴァイオリンのためのソナタ」。
前夜からのリハーサルを経て、
二つのヴァイオリンは、まるで見えない糸で繋がっているように、
素晴らしい音を紡ぎ出した。
武満徹の「揺れる鏡の夜明け」。
ヴァイオリンがひとつからふたつになることで、
二つの楽器の間に絶え間ない不思議な緊張と共鳴が生まれ、
聴衆の五感を大きく揺さぶる。
コンサートの最終章は、ふたたび漆原のソロによる
高橋悠治の「七つのばらがやぶにさく」。
高橋が、自ら聴衆として、漆原の音を聴いていた。
演奏の後、高橋が音楽プロデューサーの平井洋に語りかけた。
「楽譜に書き込んであった第7倍音が聴こえた!なかなかこうはいかない。」
簡単には弾き出せないこの音を
高橋の目の前で、漆原が響かせてみせたのだ。
偉大な作曲家の耳は、それを聴き逃さなかった。
この比類の無い音楽の技は、その心とともに、
漆原から瀬木へと、引き継がれていく。
ひとつの点が線になるように。
平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ 木村佐近